日本のオープンデータは構造的に失敗する
今日はいつもと違ってオープンデータのお話です。
「オープンデータ」という言葉が言いだされてからかなりたちましたが、日本での成功例はあまりありません。
これは構造的なものです。
基本的に、アメリカ(オープンデータの本場はイギリスですが)でうまくいったものは時間をおいて日本でも成功します。
例を挙げると、 Windows や iPhone です。
ところが、ある種のものは成功しません。
それは何かと言うと、「社会構造が違うもの」です。
一番わかりやすい例を出すと、「デカい車」です。
一時期アメリカでデカい車が売れました。
時間をおいて日本で売れたのか?
売れません!
日本の社会構造はデカい車が走れるようになっていないのです。
ですから日本でデカい車は売れませんでした。
同じことがオープンデータでも起こっています。
オープンデータは「課題を発見するツール」です。
オープンデータにより課題は発見できます。
重要なのは、課題を発見することではなく、課題を解決することです。
日本では、だいたい「オープンデータで課題解決!」と言うと、何かのアプリを作って終わりです。ただ、数年前までは「課題発見」だけで「アプリの開発」にすら辿り着いていませんでしたから、その分は進歩しています。
アメリカやイギリスがオープンデータで成功しているのは、「市民が課題を解決する仕組み」がアプリ以外に存在するからです。
日本でいうところのNPOのようなものを市民が自分で立ち上げて解決していくわけです。
日本はそういう仕組み、風土がありません。
アプリを作るか、「この解決は自治体でやってください」でシャンシャンです。
「市民が自分たちで課題を解決する」という社会構造がないので、いくら市民にデータをオープンにしたところでいつまでたっても課題は解決されないのです。
積極的にオープンデータ活動に携わっていく中でこのあたりのジレンマに気付いてしまった人たちは、「日本のオープンデータには出口が無い」という表現をされることがあります。言い得て妙です。